へんずうつつ

何のために生きているのか、なんてありきたりな疑問を浮かべている午前3時。そろそろ寝る時間だな、と感じるが、生きている意味を見出せなかった昨日の消化不良が睡眠を妨げる。メラトニンの瓶を手にとって、錠剤を水なしで飲み込む。メラトニンも残り少なくなってしまった。これがなくなるとかなり困るのだが、海外から輸入しなければならないので少々面倒くさい。さらに、円安により以前より購入価格が上がっていて買うのをためらわせる。そんな事考えている間に、とろけるような眠気が襲ってきた。メラトニンは耐性がついて効かなくなりやすいそうだが、今のところその様子はない。

目覚めた瞬間、強い頭痛に襲われた。すんなりと受け入れたのは、夢の中で苦しんでいた自分を見ていたからである。こうやって得た眠りでは、心なしか悪夢を見る頻度が高いように思う。
睡眠の直前と直後に薬を飲むのに抵抗を覚えたので、頭痛を最大限に浴びようと決心した。自分の存在への罰としても。片頭痛はどうしようもなく痛くて、辛くて、現実であった。こんな自分をでも慰める理由として十分なほどに。誰かに慰めてほしいという願望は強いが、その様子を妄想するほどの余裕はない。痛みという現実を直視し続ける時間、ただそれだけがそこにある。
生きている実感がないときほど、この時間の価値は上がる。逃げも隠れもしていない、受動的な存在理由。
自殺する人の気持がよく分かる。理不尽に痛みを受ける人間に対して、ほとんどの人は同情や憐憫の気持ちを抱いてくれる。その確固たる通念だけで、自己陶酔に陥って幸せな気持ちになれる。
ああ、これは本当に苦しんでいる人に失礼だったかもしれない。
でも本当に苦しんでいる想像上の人物を思い浮かべて、自分のことを嫌いになるなんてどうなんだろう。こういうジレンマは往々にして生じる。被害妄想も現実に起こっていることかもしれないからその少ない可能性を拭うことができない。つくづく疲れる思考であると自分でも呆れ返る。

痛みがピークに達する頃、胃酸が口の中に広がり、トイレへ駆け込まなければならない未来を想像し始めた。不快感とともに安堵の気持ちを覚える。吐き出してしまえば頭痛がいくらかマシになることを経験則から知っていたからである。
しかし、これは自分との戦いである。その安堵と胃酸を飲み込んで、そこから出ない意思として布団を頭まで覆い被る。そこには滲む汗と回転し続ける思考が充満している。
頭痛時の思考はサウナの時と同様に長続きしない。思考の途中で「痛い」という感情が入り込んできてしまうからである。しかし、その感情から気をそらすために思考を続けないわけには行かない。
サウナはまだ、そこから出るタイミングを自分でコントロールできるからいい。頭痛はいつまで続くかわからない中で気をそらし続けなければならないのである。

ついに考えることがなくなった。何を考えればよいかを考える。さもなければ「痛い」という情報量のない連呼が始まるだけだ。一人で「痛い」と連呼するほどの虚無があるだろうか。自分しか聞いていないのだから声に発するまでもなく考えれば良いし、そもそも痛いことなどわかりきっているのに考える必要などあるだろうか。
そんな情報量のない発声をするたびに、三島由紀夫の「暁の寺」のある場面を思い出す。登場人物の男が火事が生じた際「火事だ」と叫んだことに対し、主人公が「火事のときに火事と叫んで何になる」とその男を軽蔑するような考えを見せた場面である。それを読んだ時、思わず笑ってしまったが、このような意味のない発声は往々にして行ってしまうものだ。私はその度に、暁の寺の主人公に言い訳したい気持ちになる。

ピークが過ぎた頃、気づかぬうちに数時間眠っていてその頃には頭痛が治まっているというのがいつものパターンである。今日もその例に漏れずに気づけば昼前に目が覚め、何事もなかったかのように日常が始まるのであった。かすかに残る頭痛の片鱗は、ストレス社会に生きる日本人が抱える平均的な頭痛とさほど変わらないものであろう(と言い聞かせる)。言い訳のきかない同調圧力の中で、この程度の頭痛を申し出るわけにもいかないし、かといって一人ひとりに頭痛の程度を聞き回ることもできない。朝から晩まで泣き寝入り。強い人間に私はなりたい。今生、根性身につけて。

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