今日、電車の中で村上春樹訳のグレート・ギャツビーを読み終えた。
この本は帰省の際に持っていった本の一つであったが、幸か不幸か読書をするような環境になかったので(孤独ではなかったので)持っていった本は行きと帰りの電車内のみでページをめくられるにとどまった。そして読み終えた今、グレート・ギャツビーは電車内で読み終えるような本ではないと感じている。
入り組んだ人間関係や表層的な人間模様を受け取るだけで、ほとんど素読のような読み方をしてしまった。その後、Amazonのレビューや村上春樹自身のあとがきを読んで、もっと丁寧に読まなければならない作品であったと理解した。すくなくとも、帰省に必要な荷物を背負って、首を痛めながら吊り革につかまって読み進めるような作品ではなかったのである。
しかし、この本はなんだろう。さらっと読んだだけなのに、頭の中の情景がありありと思いだされる。ホテルでデイジーが急に求めた、ミントと氷みたいなやつだけはイメージできなかった。
ニックの立場で当事者で居続けられるから、物語が頭に入ってくるのだろうか。あまりにキャラが立ちすぎている周囲の中に佇む、常識的に見えるニックが示唆的なものを持ち合わせている安心感で一つ俯瞰的に読み進めることができる?みたいな印象。
どうやってこの物語を楽しむべきかというのは考えものだが、今回の読書では美しい表現を隅々まで堪能することは出来なかった。
さまざまな訳書が出ていて他も読んでみたいと思ったが、あとがきで書かれていた村上春樹のこの本への思いから、村上春樹訳への評価バイアスがかかってしまうように思う。
また今度は、涼しい夏の日に(そんな日はもう来ないかもしれない)カフェのテラスでこの作品を読みたいと思う。
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