孤独と読書

以前から嘆いていたことだが、私はあまりにも孤独すぎる。すべてのうまくいかない原因が孤独のせいであると思い込んでいるくらいには孤独である。

大学4年間のうち、1年の頃はコロナ禍で実家にいたが、2年から現在まで一人暮らしで、大学でプライベートで会うような友達はただ一人も出来たことがない。

そう嘆きつつも最近までは、そこまで深刻に考えることはなかった。一人なら大衆向けでない食事を好きなタイミングで摂れるし、お金の面で甲斐性を見せる必要もない。ずっとイヤホンでラジオや音楽を聞けるし、カラオケだって一人のほうがたくさん歌える。そりゃあ淋しい気持ちが芽生えるタイミングもあるが、誰かといる場合でも何かしらの不都合があって、それが結構面倒なものだから結局自分は一人があっていて隣の芝生が青く見えているだけなのだろう、と納得させてきた。

しかし、最近なぜこんなにも孤独をかこつようになったのだろう。幸せそうな家族や楽しそうな群れを見ると、自分と対比して「それに対して、、」と悲しくなってしまう。
孤独に関するいろいろな意見を見ると(Youtubeで孤独に関するものや友達が云々というサムネがあると引きつけられるように見てしまうので、結果としておすすめ欄に定期的に流れてくるようになった)結局孤独が一番とか、孤独で私は幸せです。とか肯定するような意見ばかりで、それは自分にとっては歓迎すべき意見のはずなのだが、なんだか求めている意見じゃないなという感想を抱いてしまう。どうしても納得できない。だって、現状が楽しくない主な原因は孤独のせいであると自分の中で信じている(いたい)から。一つ一つの意見に対して反論、反例を考えてしまう。「いや、一人でも親密な関係な人がいたらそりゃ孤独じゃないでしょ」「その上っ面の関係ですら持つことが出来ないんだけど」「仕事上で気軽に話すとか、そんなコミュ力持ち合わせてないし」
心に響くような、スクショして残しておきたいようなコメントは見当たらない。

でも、昨日すこし心に残るような言葉、アフォリズムのようなものがあった。それは「孤独を感じる人は本を読まない傾向にある」という言葉である。どうやらこれは林先生の言葉らしいが、なるほど確かに今まで見てきたコメントと比べて具体性もないし、説得力もない。しかし、反論の余地はない。本を読むという行為は一人で行うことだし、その時間は確実に有意義なものとなる。考え方というよりも、行動の指針が与えられることで「この孤独感を軽減できるかも知れない」という期待を与えてくれる。どんな自己啓発本よりも実践的で、明確な考えがこの言葉には詰まっていると感じた。

というわけで、流されやすい性格の私は「よし、じゃあ明日から読書をいっぱいしよう」と心に決めた。先ほどの言葉が心に残ったのは、私が以前に比べて読書できていないということも起因している。中学、高校生の頃など授業中も休み時間も通学中の電車も読書して、寝る前の読書習慣もあった。しかも、(読むのに集中力が必要だと思っている)文学小説しか読んでいなかった。
大学に入ると読書の頻度も減り、せいぜい電車での移動中、病院の待合室で読むくらいで、文学小説ではなく新書、ビジネス本?や科学本?のような現実世界の面白い話のようなものばかり読んでいる。それはそれで良いのだが、やはり読む冊数が減っていて、家に占める本の80%くらいは積読本だと思う。とくに分厚い本「利己的な遺伝子」や「影響力の武器」などは2年以上読もう読もうとおもって手を付けておらず、結局軽いブルーバックスの本や、話題になっている本を読んでは手軽に知的欲求を満たして満足してしまっている。

きっと読書は苦しいものだ。そういえば、昔だって本を苦しみながら読んでいた。もちろん読んでいて楽しい部分も多いが、これをすべて読まなければならないという絶望感と、それに継続して立ち向かっていくのにはかなりのエネルギーが必要であった。長距離マラソン、登山のような感覚である。
関係ないが、長距離マラソンも高校生の頃は得意であった。男子生徒500人くらいの中でtop10に入るくらいの脚力と精神力を持っていたはずなのに、今では体力、忍耐力のないこと。どうしてそれらの力を失ってしまったのだろう。

体力は置いておいて、読書は今でも一切しないというわけではないし、家に読んでいない本が有り余っているので明日から、今日からでも始められる。言われてみれば、なんで最近読書していなかったのだろうと思うほどだ。ただ、口で言うのは簡単だが実際に継続するのは非常に困難である。すこし前に、宮本浩次が読書している様子を見て読書する機運が高まっていたが、結局するに至らなかった。これはタバコを吸わないせいだろうか。

ある程度、自分を強制して習慣化しなければならない。例えば、寝る前30分は読書するなど。でも、これはどうなるかは目見えて、バイトで遅くなった夜や、次の日が早い夜はそれを言い訳に読書せずに寝そうだし、そもそも寝落ちぐせのある自分はどうせ寝落ちして、一回寝落ちしたら習慣が崩れてやる気が無くなったりしそうだ。
何かに付随させるのも良いかも知れない。図書館に足を踏み入れたら、絶対に30分以上読書するなど。いまも、電車内、病院の待合室では読書するという習慣があるのでこれは容易に達成できそうである。でも、これは能動的な行為なので少し強制力が足りない。時間的拘束を受ける状態を作為的に作り出せば、読書せざるを得ない状況を作り出せるのに。
この関連で、電車の定期を買って、読書のために電車に乗るというのは考えたことがある。しかし、田舎ならまだしも都内かつ、激混み路線ユーザーなので、椅子に座れないかもしれないのが嫌で諦めた。
あとは、お金を支払っていれば損したくないという気持ちから、そのサービスを用いざるを得ないという心理を利用するのも古典的だが悪くはない。
お金に自分をコントロールさせるのは情けない話だが、最近になってやっと時間の価値がわかってきたのでそういう選択肢にも抵抗はなくなってきた。

いろいろ案を出したが、自分のための文章であるため具体的に計画を立てる。
まず、図書館で読書するのは確定で、平日は毎日図書館に行くことにする。図書館での勉強は、都内に引っ越してきてその人口密度と勉強への熱意から市営図書館では難しいと感じているが、読書であればおじさんの咳払いが気になるくらいで、いくらでも椅子は空いているので、大学図書館に限らなくても良い。
あとは、寝る前読書は、その日を良い日にするというモチベーションのもとで週に数回行うものにしようと思う。バイトで帰るのが深夜だったり、次の日2限があって今から読書すると7時間寝れないみたいなときは無理に行う必要はない。漫然とした一日をより良いものにする一日の最後の選択肢として(ジムにいくとかと並列にして)置いておきたいと思う。電車内、何かしらの待ち時間は固定で、良い読書シチュエーションがあればどんどん記憶して、継続していきたい。
あとは、ブログで読んだ本を記録していこうと思う。気合は入れずに、本を読み返したりはせずに勝手に思ったことや面白かった部分を記録できれば良いな。えいえい

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