2024/1/2

本日は県外の親戚を訪ねた。父方の本家で、毎年年始、お盆などの節目に訪れるのが恒例となっている。しかし私個人で言えば、コロナ禍や実家から離れたことが起因してここ数年は行くことができずにいた。とても久しぶりの訪問である。自分のことなんて忘れているのではないだろうか?
いとこ、はとこなど、親戚の子ども達で自分と歳が近い人はいないので、よく捉えれば比較対象がないので引け目などを感じることはないが、悪く捉えると別に訪れたところで楽しい場所ではないという感じである。父親の結婚、出産が相当早かったということだろう。自分と同じ歳で、既に父親は自分のことを生み届けている。それによって少しばかりの焦りは感じるけど、3つくらい段階が足りていないので途方もない。
年が離れているというのは3歳、5歳とかその次元ですら無い。ほとんど全員一回り以上離れている。自分が就職したらお年玉を上げる必要が出てくると思う。それくらいの年の差である。
その父方の本家に訪れた際の流れは、お線香を上げ、お墓参りに行き、お昼ごはんを食べ、数時間佇んで帰るという感じである。お昼ごはんは豪華な印象が強く、今回は子どもたちのリクエストによりピザが注文されて、その周りを手の込んだ和食が囲っていた。もち米のおこわが美味しい。
その後は手持ち無沙汰で、高校サッカーをTverでみたりお笑いオムニバスの事前番組を見ていた。いとこらと遊びたい(好かれたい)気持ちはあったが、下の妹に軍配が上がった。例のごとく、トランプゲームをやったがそこまで盛り上がらず、縄跳び合戦で背中を痛めたので諦めた。男の子はずっとテレビゲームをやっていた。そして、こちらでも金銭を受け取ってしまった。これはもはや、暗黙の脅しなのではないかとすら思い始めた。もちろんありがたくいただくが、少し気まずい。数年ぶりにのこのことやってきて、小さないとこらの面倒もうまく見れずに金銭を受け取るのは申し訳ない。次訪れたときには、与える側としてかましてやろうと思う。これをモチベーションに就活を頑張ろうかな。というのは冗談で、Xに書き込まれて炎上しないようなモラルで行動しようとは思っている。
しかし、私はなんで親戚に対して爪痕を残せずに悔しがっているのだろうか。高校生の自分には絶対にこんな感覚はなかったのに。高校生の時のほうが絶対幸せだったし、なにかがおかしい。22歳は流石に大人として振る舞わないといけないという自意識がこうさせているのか?
一回、人に対する関わり方を見直さなければいけない。潜在的な自分なりの美学が様々な場面で邪魔をしている。待ち続けているうちに若さは失われていく。若さが失われると、色々と自信がなくなっていくだろう。若さの価値を若いうちに気付ける人はいるのだろうか?それに気づかずとも使いこなしている人は多々いるが、若さが失われることを予期して行動するなんて難易度が高すぎる。自分みたいな性格は年を取るごとに生きづらくなって行くと思う。でも、それが分かっていても、それに対処するようなやり方で生きていくみたいなことは絶対にできない。(そういう解決策を、ほかの理由をこじつけることで無理やり自分に取らせるとかはできるかもしれない)
人との関わりも、当たりばかり引こうとして何も行動していない。サーチばっかりやって、パックを買わない少年と同じである。いや、サーチすらしていない。まずは当たりやすい店を調べて、そこで売っているパックを勇気を出して買ってみないといけない。今の生活がちょっと鬱ぐらいだからちょうど良くない。抜け出さないといけないほど最悪でもないし、そこから抜け出す気力もそれほど残っていない。今年、というか今月にでも自分にムチを打つ必要がある。生まれ午年だし。

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