自己表現をしたい。自己表現が受け入れられれば、自分が受け入れられたと感じることができる。
自己表現が多くの人に受け入れられなければご飯を食べることは出来ない。
じゃあ、自己表現が多くの人に受け入れるようにすればどうすれば良いのだろう。
芸術は最たる例で、そこには音楽や小説、詩などが含まれる。
SNSが流行っているのは、多くの人が自己表現をしたいと心の底で思っているからなんじゃないかと思う。それが単なる自慰行為となるか、高尚な表現であるかを決めるのは大衆である。
いかに高尚なものにするかというのは、クオリティーやオリジナリティーが必要になる。
誰でもできること、誰でもわかっていることなど興味はない。
そこにはある程度の才能が必要になってくる。
そもそもそのことに気づく必要もある。
才能があっても、自信がないと自分の才能を信じて進むことは出来ない。
才能があっても、適切に使われないと発揮されない。
諦めて時間だけが浪費されていく。
なんでもいいから、自己表現が世の中に受け入れられたい。
お金にならなくていいから、美しく生きたい。
美しい自慰行為になんの意味があるのだろうか?
世の中を良くしたいとか、貢献したいとか、そういう気持ちは嘘ではない。
でもそれは、世の中とwin-winになるということ。
つまり、世の中を良くしている、貢献していると感じれるようになる時には、自分だって豊かになっているということだ。
自己表現と需要が一致したときにすべてがうまくいくようになる(ようにみえる)
そこに到達するまで、自分を信じ続ける事ができるか、自分の才能を活かすことができるか、熱量を持ち続けることができるか、、
周りの目を気にしてみる。
正直、自己表現だけをして生きていけば幸せな気もする。この恵まれた国、日本では簡単に生きていくことができる。定職について歳を重ねていくよりもよっぽど10年後の生存確率は高いと思う。
親孝行、同級生達は所謂ちゃんとした仕事をして家庭を築いたりしている。
良い親を持った。同級生と険悪でない。嫌われたくない。変な目で見られたくない。
そういった要素を排除したときに、自分は自己表現の道へすんなりと進むことを確信している。
そんなもの大した要素ではないのかも、自分に自信がないから、そういう道に進むのが怖いから言い訳として羅列しているだけなんじゃないか?
私は、すべての期待に応えたい。誰かを失望させるのが嫌だ。
自分の自己表現が、近しい人に受け入れられるとは限らない。
需要なんてそんなもんだ。世界中の数百億人のなかの10万人に受け入れられれば大成功。
頭でわかっていても、辛い。胃が痛くて、呼吸が苦しくなる。
だったら、確実に期待に答えられる選択肢を取ったほうが良いかも、自分の意志を捻じ曲げても、そう思ってしまう。
ビジネスとか、自分の美学から最も遠い存在。
性善説で、winwinな世界で生きていたい。自分も受け入れられて、みんなも喜ぶ。
どうすれば、絵もかけないし、音楽もやったことないし、文章だって長編のストーリーを書き切れる気がしない。
音楽も、小説も、もしも一ついいものができて世の中に受け入れられても、もう一つ、もう一つ作品を作らないといけない。そのことを考えて途方もない気持ちになって臆してしまう。
でも、まず1つなにか作品を作ってみようと、そう思えるような気持ち。
本当に良いものは、多くの人に受け入れられるはず。
そう信じて
自己表現と需要

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