読了 11/17
この本は、私の好きな芸人「ガクヅケ」の木田さんがYoutubeチャンネルに推薦図書として挙げていたので、その動画をみてすぐに読むことを決意した。
自分の中でなんとなく図書館で借りて読む本と、自分で買って読みたい本が存在する。これは単純に分量が多くて時間がかかりそうな場合は購入するというのもあるが、大きな要因は家の本棚に入れたいかどうかということだ。この「告白」は本棚に入れたいと思ったので自分で購入して読むことにした。しかし、ここに一つ手間があり、単純に新品で本を買うということはめったにない。欲しい本がある期間は、道ざまのBookoffに入っては目的の本を探す。あるいは、Bookoffのオンラインショップやアマゾンの中古のところでお手頃なものを購入する。
時間の価値がわかっていない人間の所業であるが、現在進行系で読んでいる本があるのでそんな急ぎでもなく、Bookoffに足を運ぶことが一つの趣味であることから、それに対する批判は全く持って意味をなさない。目的の本に邂逅したとき、その後ろの値札がちいさくて値段だけが書かれているとき、その喜びは計り知れない。
そんなこんなで、数回目のBookoff巡りで390円、単行本の「告白」に巡り合った。
思ったより分厚い本で、行く先行く先に持ち運ぶのがためらわれる分厚さである。
しかし、そんなことは気にせずに100円引きクーポンを用い、290円で「告白」を手中に収めた。
ここまで分量の多い小説を読んだのは久しぶりで、先が思いやられたが、動画内で言われていたように読み進める苦痛のようなものはまったくなかった。時折挟まれる、熊太郎の長尺にわたる思弁が突飛な比喩表現で行われているところを注意深く理解しようとすると読み足が遅くなるが、その他の部分はすっと頭に入ってくるストーリーである。この話は熊太郎に感情移入、共感をしながら読み進めていくものだと思うが、現代人は大抵の人がそういう読み方をするのだろうか?私の目に映る、直線的な考えを厭わない人々がこの本を読み進めるときは、どんな感情で読み進めるのだろうか。
この本で気になった点は、ストーリー内で現代に照らし合わせた例えや著者の意見がちらほら挟まれるところである。物語上の時代は現代よりかなり昔であり、それは言葉遣いやお金の価値が現代と異なるところで明らかにわかる。文章のカギカッコ外は熊太郎の思弁や村の様子などが記されていて、時折そこに作者の自我(いい表現が思いつかなかった)のようなものが入り込んでくるのである。このままではそれが悪いみたいに書いているが、その感じを(僭越ながら)自分と重ね合わせてしまった。このなんとも言えない「蛇足感」と「親切心、予防線」の天秤が垣間見えた気がしたのである。
例えば、最後の方で虐殺が行われたところに対する村人たちの反応が、現代の反応とどうも辻褄が合わない(と感じる人がいることを慮って)そのズレに対する筋の通った意見がきっかりと書かれていて、でも確かにこれを注釈にしてしまうと個人の考察を注釈にする違和感が生じるので、このスタイルが適しているようにも思えた。
全く内容と関係ないことばかりを書いてしまったが、この熊太郎にほとんどの人間が共感できるのであれば自分はかなり救われるような気もする。かといって、その度合が異なるので「その程度で共感するのは浅はかだ」とか「その不幸と比較すると自分が共感できるといって良いのだろうか」とか思い始めるので結局あまり救われないような気もする。というか、難しい。不幸になる思考みたいなものを辞めることは無理なんじゃないかと思ってしまった。それをやめない限りは絶対に不幸であり続けるけど、それが自分を形成しているものであって、それをやめた瞬間に自分でなくなるから、自分でないそいつが幸せになったところで自分は幸せになれないのである。良くて、不幸の海の中に幸せが飛び飛びで浮き出てくる程度の人生なんじゃないかと思う。
これは、本とはあまり関係なく最近思うことだが、先程の考えはあくまで「自分の幸せ」に対するもので、私は親密な他人の幸せを心から願うことができる気がしているのだ。そしてその幸せが自分にとっても喜ばしいこと、いや、もうすこしちゃんというと「自分が干渉して作り出した他者の幸せ」が純粋な幸せになる気がしている。というか、それがあたりまえなのか?自分はそれに最近気づいた。
おそらく、(自分は)孤独な状態で作り出せる幸せな状態が、不幸から幸福にいくボーダーラインに達していないので、客観的に見て幸福な状態であっても不幸だと思い込んでいるのだ。
あるいは、孤独の期間が長すぎて、他者がもたらす幸せの要素が未知数であるがゆえに、自分が幸せなのがどうかが見分けられずに自分の幸福度を過小評価している可能性もある。
しかし不幸中の疑心暗鬼は苦しいもので、誰かを信用することができなくなっているのだ。
仮に99%で問題がないような事案であっても、1%の確率で自分が傷つくような気がしたらそこから前に進めなくなってしまう。受動的であれば、その心配がないので常に「待ち」状態となってしまうが、きっとみんな相手している暇はない(あるいは何かしらの理由で忌避されている)ので孤独なレースが続いていってしまうのである。
弥太郎のような存在は本当に羨ましいが、もし存在しても熊太郎のように疑心暗鬼になって、離れていくような素振りがあっても止めることはできないだろう。自分には止める権利がない、今までありがとうと思うだけだろう。どこで間違ったか色々考えて、「もしかしてあれは~だった?」みたいなことを聞いても、全然そんなことはなくて、単純に自分がつまらない人間だから去っていくのだ。自分と一緒にいるメリットがないから。お金で釣るみたいなところで戦いたくない。そこには自分なりのポリシーみたいなものがある。ありのままの自分のユーモアとか、感性を良いと感じて一緒にいてくれることを望む。でもそこに自信はないから、見放されても文句は言えない。そして自分が変わろうとも思えない。自分の何がだめなのか、どこを変えたほうがいいか、客観的な意見を聞きたいが、結局そんなことを聞いたところで自分には響かないことが目に見えている。自信がないくせに意固地でプライドが高い。こんなことを書いたところで、自己分析したところで何も変わらないのだろう。
不幸とともに生きていくことを決心するしかない
本はとてもおもしろかったです。恥ずかしながら読むのにかなり時間がかかりましたが、ちょうど昨日、ガクヅケの新ネタライブの行き来の電車内で読み終えました。なので、ちょうどいいというか、物販のときに直接伝えるみたいなことも1mmくらい考えたけど、1000円の商品を5000円札で出してしまった申し訳無さと、ライブとの関係の無さから自重したというわけです。
でも、印象に残るのは直線的に思いを伝える人だし、自分だってそういう人に救われたりしているのでそうすべきだとも思うけど、やはり1%くらい歪んだ考えが脳内に発生してそれを抑えてしまう、あるいは婉曲的とか声量が小さくなるとかで邪魔してくるので、どうしてもそういう人たちになれる気がしないのです。
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