今日はおばあちゃん家で麻雀した。
この麻雀セットは私がおじいちゃんと麻雀を打つために誕生日にプレゼントしたものであったが、結局一回打ったきりでおじいちゃんは他界してしまった。
麻雀は妹二人を無理やり引き連れて、打ち方を教えながら行った。とりあえず、最初の2,3局は手配を開いたままで行い、最低限の3・3・3・2で揃えるということだけ教えて、逐次これはこういう役とかリーチできるとかこういう理由でこの牌を切ったほうがいいとか言いながらやった。
パーソーとイーソーが最初何かわからないのが、初心者あるあるだと感じた。
3局くらい開けたままやった後で、実戦に移る。
最初の局で下の妹がリーチを宣言したので、オープンしてもらった。すると、多面待ちでフリテンリーチになっていた。いきなりフリテンリーチは幸先が悪すぎる。そのルールの必要性を説明するのに、安牌とか新たな情報を出す必要が出てくるからだ。とりあえず、フリテンリーチの存在だけ教えてそのまま続行した。その後は、ほとんど何事もなく、ただあまりテンパイまでたどり着けない局が多く、もっと牌効率を鍛錬してもらう必要があると感じた。ただ、流局で牌を見せてもらうと思った以上に高い手を狙っていたりして、なりに頑張っているのが伝わった。(上から目線)
その後、おばあちゃんが整体に出かけたので3人で数時間うち続けた。そして夕方、おばあちゃんが返ってくる頃にお開きとなった。麻雀なんて覚えといて損はないだろう。暇そうにしていたし。少なくとも楽しそうにしていたので良かった。また年末にお父さんかお母さんを入れて四麻でもしようという感じである。家族円満すぎて、引け目すら感じる。この点においてこの上なく恵まれているのだろう。ニシダのYoutubeとそのコメント欄をみてそう思う今日このごろ。
しかし、自分が居心地良く居られるのもいつまでか分からない。行動経済学の観点で言えば、失った状態から得るよりも、得た状態から失うほうが辛いはずである。少なくとも、家庭に敷居が高くなるようなことがないように生きていかなければ、自分の居場所がなくなってしまう。
長く短い年末年始をこういった冗長な時間に費やすのもまた一興。いつも怠惰な自分が、刻一刻と帰省の時間が消費されるのに焦りを感じるのはなぜだろう。今まで捨ててきた時間がかわいそうだろ。時間の価値は下がっていく一方なのに。この日常を維持するために、ただ留まっていてはいけないのだ。
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